益田市は医学の偉人を多く輩出しています。
その中でも歴史的に大きな功績を残した偉大な先生方の2名を紹介いたします。

米原恭庵先生

医師 米原恭庵先生は、文政11年(1828年)8月に石見高高角村(現在の益田市高津町)にお生まれになり、江戸時代末期から明治にかけ活躍されました。

先生が初めて医学を志したのは天保10年(1839年)で11歳の時であり、天保14年から弘化2年(1845年)まで長門国阿武郡須佐村の田村玄洞について西洋医法内治外科を学び、牛痘種法を習得し、その後津和野藩侍医岩本靖庵について賀川流の産科を習得されました。

嘉永2年9月(1849年)、益田・高津地方で流行した天然痘に対し、この時21歳の恭庵先生は私財を投じ500余名の地元民に対し、初めて牛痘を施し大きな成果を上げ、この災厄から救いました。

日本で初めて牛痘接種が成功したのは長崎で嘉永2年7月でしたが、そのわずか2か月後、へき地に住む恭庵先生がわずか21歳で輸入後いち早く種痘法を講じたことは、我が国医史学上の新知見であり、日本種痘史の一頁を飾るものです

益田市医師会では、米原恭庵先生のご功績を称え遺徳を敬迎し、昭和47年9月22日、天石勝神社境内に頌徳碑を建立しました。

恭庵翁が自ら業績を刻み建立したといわれる種痘記念碑

恭庵翁が自ら業績を刻み建立したといわれる種痘記念碑

秦佐八郎先生

医師 湊佐八郎先生は、明治6年3月に石見国美濃郡都茂村(現在の益田市美都町)の旧家山根家の八男としてお生まれになり、同村の姻戚にあたり代々医業をなし11代続いていた秦家の養子となりました。

明治24年(1891年)、医学を志し、岡山第三高等中学校医学部(現在の岡山大学医学部)に入学、明治28年(1895年)同校を卒業し、約1年間の兵役を終えたのち、再び岡山に戻り岡山県立病院に勤務するかたわら荒木寅三郎について生化学を学ばれました。

明治31年(1898年)7月、秦先生は北里柴三郎が所長を務める大日本私立衛生会伝染病研究所の入所し、ペストの研究に従事しました。

明治40年(1907年)、秦先生はドイツに派遣されてベルリンのコッホ研究所に入り、ワッセルマン博士の下で免疫学を学んだ。さらにフランクフルトの国立実験治療研究所でエールリッヒ博士の化学療法の研究に参加し、以来1年4か月にわたる実験研究の末、世紀の医業といわれるサルバルサンの発見を成就しました。これすなわち「エールリッヒ・秦・606号」で、梅毒をはじめスピロヘータを病原とする難治性疾患の治療に光明を与えることになり、一躍、世界に名声を博しました。これこそ人体に応用した化学療法の第1号でした。

明治43年に帰国した秦先生は、伝染病研究所にて研究を進め、サンバルサンの臨床試験、その化学療法の伝習に励まれました。

大正3年、北里研究所設立にあたって部長となり研究と臨床に全力を尽くし、大正9年には慶應義塾大学教授となり細菌学講座を担当したほか、国内国際各種団体の役員を歴任されました。

画像出典:Wikimedia Commons「Sahachiro Hata」

研究するエールリッヒ博士(左)と秦先生(右)

画像出典:Wikimedia Commons「Paul Ehrlich and Sahachiro Hata」